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苫米地英人が解説する釈迦の教え!?『 お釈迦様の脳科学 釈迦の教えを先端脳科学者はどう解くか?』

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お釈迦さまの脳科学 釈迦の教えを先端脳科学者はどう解くか? (小学館101新書)

本書は仏教の解説を苫米地さんがする内容です。

仏教といっても、浄土真宗や禅宗など、日本の仏教ではなく、釈迦のオリジナルに近い教え…いわゆる原始仏教ですです。

仏教は大きく分類して、釈迦の教えに忠実な保守派の上座部仏教と大衆への布教を目的とした改革派の大乗仏教があります。日本の仏教は大乗仏教です。本書で苫米地さんが語っている原子仏教は、上座部仏教の中でもさらに古い部分になります。

大乗仏教は大衆への布教をするために、それまでに禁じられていた儀式などを取り入れました。その上、日本の仏教では僧侶の飲酒や結婚が認められていて、日本の仏教は世界的に見てかなり特殊な仏教と言えます。

注意が必要なのは、日本の仏教が特殊である=日本の仏教が間違っているということを苫米地さんが主張しているわけではない点です。

これは良くある日本仏教批判で、共感を得やすいです。実際にオウム真理教もそのような主張をして宗教学者や評論家の支持を獲得した経緯もありました。

浄土真宗の親鸞の思想をキリスト教に通じる世界的な教義と称賛したり、以前私もレビューした『空海は、すごい 超訳 弘法大師のことば』というストレートなタイトルで真言宗の開祖である空海を絶賛していた苫米地さんです。そこまで単純な話ではありません。

あくまでも日本の仏教はオリジナルの釈迦の教えとは違うだけで、正しい間違っているや良い悪いは別問題です。

苫米地さんの手法は、比較通じて、違いを明確にすることで、本来の釈迦の教えとはどういったものなのか?に迫ります。

日本の仏教と釈迦の教え

釈迦の教えと日本の仏教が乖離している具体的な例として、苫米地さんは以下のようなものをあげています。

葬式の禁止

かねてから「葬式仏教」と揶揄されることの多い日本の仏教ですが、そもそも仏教は「あの世」に行くための宗教ではありません。仏教でキリスト教の天国に相当するのは「浄土(極楽浄土)」ですが、釈迦は一言も浄土について語ったことはないのです。

それどころか、釈迦は葬儀に僧が関わることを禁止していました。自分の死を予期した釈迦は、それを弟子たちに伝えます。そのとき死後の供養について弟子から尋ねられるのですが、釈迦は「僧は葬式のような儀式に関わってはいけません。修行に専念しなさい」と指示したのです。日本では葬儀が僧侶の主な仕事になっていますが、釈迦の言いつけを守っていないのです。240

信仰にそれほど熱心でない人にとって、仏教と接する可能性が高いのは葬儀の場でしょう。逆に言えば、葬儀以外で仏教と関わる機会がない人もいると思います。

葬式=仏教という考えは、釈迦の教えではないと苫米地さんはいいます。

実際に葬式=仏教となったのは、江戸時代だと私は考えています。江戸時代に檀家制度が確立されました。どこかの寺に所属することが、江戸時代の人々の市民権だったのです。

仏教も幕府から庇護を受ける代わりに、住民の管理等公的機関の仕事を代行していました。住民が結婚したり、旅行に行く際には寺が身分を保障するのです。そして安定的な収入を得る手段として現代でも行われる初七日や四十九日などの法要も確立されました。

このような経緯で日本の仏教=葬式という考えが生まれてきたのだと思います。

死後の世界を前提としていない

釈迦は直接「死後の世界はありません」と断言したわけではありません。「無記」と言いますが、霊やあの世といった形而上学的な問いにたいしては、「それについては答えません」と言ったのです。なぜならば、それらを証明するのは生きている間では不可能であり、考える意味がないからです。240

 

釈迦の教えでは、あの世の存在を前提としていないそうです。

これはインドの宗教の歴史の流れが関係してきます。

釈迦の時代、インドで一般的だったのはバラモン教です。現在のインドではヒンズー教が一般的ですが、その原型といえます。

特徴としては輪廻転生(生まれ変わり)を前提としていて、バラモンを頂点とする身分差別です。身分差別を正当化するのには、輪廻転生思想は最適です。

なぜならば、私が現在の身分にいるのは、前世で良い行いをしたからだ(お前の身分が低いのは前世の行いが悪いからだ)と主張できるからです。

本書で苫米地さんも言っているように、釈迦には当時の社会改革者的な側面がありました。つまりアンチバラモン教と言えるでしょう。

バラモン教が圧倒的に力を持っていた古代インドにおいて、その教えに反するように女性やアウトカーストの人々を弟子にしていきました。

その釈迦の教えがバラモン教の輪廻転生思想に対抗するために、あの世の存在を前提としていない(=輪廻転生を肯定していない)のは自然な流れです。

お経が呪文

日本の伝統的な仏教でお経を唱えないものはありません。

浄土真宗や日蓮宗はもちろん、禅宗ですら座禅や問答だけではなく、お経を唱えます。お経の内容は宗派ごとに違うこともありますが、仏教=お経をいうイメージはあながち間違っていないでしょう。

お経の内容はさまざまですが、釈迦がこう語っていた・・・というものが多いです。

釈迦は相手によってさまざまなたとえ話で教えを説く、待機説法の名人でした。さらに、自分の死んだ後も、バラモンにしかわからない文語のサンスクリット語ではなく、一般大衆のわかる口語で語り継ぐようにと指示しました。ですから、彼らの大乗の墓守たちが彼らなりの解釈で釈迦の言葉を語るのは、何の問題もありません。

(中略)

しかし、それ以前に大乗仏教は根本的な間違いを犯してしまっています。それはお経をサンスクリット語で書いたことです。

(中略)

大乗仏教は自分たちのお経を権威付けするためにサンスクリット語にしてしまったのです。ごく一部の知識人(バラモン)にしか読めないサンスクリット語の方が、パーリ語より核が上だという思い込みからしたことでしょうが、「口語で語り継げ」という釈迦の言いつけを忘れてしまっています。527

日本語も江戸時代までは話し言葉と書き言葉が違っていました。

書き言葉は漢文だったり、~候(そうろう)などがありますが、そのようにしゃべっていたわけではありません。

明治時代に文学者たちが言文一致運動を行った結果、現在のように書き言葉と話し言葉の差が小さくなったのです。

古代インドでも話し言葉のパーリ語と書き言葉のサンスクリット語がありました。古代インドで文字が読める人はバラモンのような特別か階級の人だけです。

釈迦は一般大衆にも教えを広めようと、相手によって話を変えたり、理解しやすい工夫をしていました。パーリ語で語り継げというのもそのためだと思われます。

しかし、後継者たちはあえて一般人の理解できないサンスクリット語を使用することで、権威付けに利用しました。

これは日本の仏教にもあてはまります。日本の仏教経典は基本的に漢文で書かれています。

江戸時代ならばともかく、現代では、高校時代に古文が得意だった人でもお経の意味を理解することは難しいでしょう。

釈迦の教えの基本は縁起

釈迦は神を否定したと何度も書いてきました。一神教で考えられている神とは、「それだけで絶対的なもの」です。カントの言葉で言う「アプリオリな存在」です。バラモン教のブラフマン(神)、道教のタオ(道)もアプリオリだと考えられていたものです。

カントの時代には、時間と空間はアプリオリだと考えられていました。しかし、相対論以降、アプリオリなものはなくなりました。

アプリオリなものは何もないということを、釈迦は「縁起」という概念を使って説明しました。縁起とは「縁」によって「起こる」と書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。 1168

釈迦の教えの基本となるのが縁起です。すべての人や物、事象というのはその他との関係の中でしか存在しないというもの。

例えば、スマートフォン。設計する人や販売する人など多くの人が関わることであなたの手元まできます。単独で存在することはできません。

あなた自身も両親がいなければこの世に生まれていなかったでしょうし、その両親も先祖がいなければ存在しなかったでしょう。『縁』が起こらなければ、物も人も存在できないのです。

こうして考えると、釈迦のいう『縁起』という概念は現在でも充分通用するものだと思います。

苫米地英人のオカルトの定義

苫米地さんは怪しいとか胡散臭い、あるいはオカルトを唱えているという批判を受けることがあります。

オカルトとは本来は正統派のキリスト教から見た他の宗派や異教徒のことです。

新興宗教に限らず、仏教もイスラム教もオカルトと言えます。仏教でいえば外道や外法といった言葉が意味として近いでしょうか。しかし、現在では神秘主義などの非科学的なことを指すことが多いです。

本書では苫米地さん自身がオカルトの定義を述べています。

今の日本ではオカルト信仰が絶えません。私自身、気功などに携わっていることからオカルトだと批判されることもあるのですが、ここで改めてオカルトとは何かを定義しておきましょう。

私の言うオカルトとは、科学的に絶対ありえない現象のことです。例えば、「霊魂が物理的に存在する」はありえません。仮に人間の身体の中に魂があったとしても、死んで身体から出たとたんにエントロピーの法則で3日もすれば地球上から拡散してしまうからです。人が死んでから四十九日間は霊魂がそのあたりに漂っている、なんてことはあるわけがありません。年に1度、お盆にあの世から霊が帰ってくる、もありえません。

(中略)

ただし科学的に「ありえないこと」と「説明がつかないこと」は分けて考えなくてはなりません。例えば、気功で病気を治すことができるのは現実です。癌ですら治ることがあります。しかも遠隔気功と行って、離れた場所から患者が気づかぬうちにでも治療できることから、これをブラシーボ効果で片付けることもできません。科学的に説明がつかないだけで、ありえないこととは言えないのです。もしかすると、気功師と患者との間で量子レベルでの通信がおこなわれて、患者の脳に病気が治るように働きかけているのかもしれません。可能性としては否定できないでしょう。

ところが多くの人は、気功で病気が治ることはありえないことで、目の前に霊魂が浮遊することはありえると思っていしまっています。それは科学的に無知だからです。オカルトと科学で説明できないことのラインは明確にあります。科学の世界では、完全に線が引けるのです。 348

科学的に確実にありえないことがオカルトで、科学的に仕組みが解明されていないものはオカルトではないという主張です。

例えば麻酔はなぜのかがわかっていません。仮説はいくつかありますが、実証までされていないのが現状です。しかし、麻酔をオカルトだという人はいないでしょう。麻酔は実際に効くからです。

とはいえ、気功についても仕組みがわからないのはしかたないとしても、効果がなくては意味がありません。科学的に効果を示すことが重要だと思います。具体的にはランダム化比較試験などを行って効果がどの程度あるのかを検証する必要があると思います。

 

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