最近出版される苫米地さんの本ですが、仏教関係の内容が多いです。
脱洗脳や認知科学など苫米地さんにはいろいろな側面がありますが、仏教の専門家として名前が売れてきたのでしょうか。
本書のテーマは『悟り』です。仏教の本質的な部分であると同時にさまざま解釈があり、本当のところがわからないのが悟りだと思います。その悟りとは何か、どのように悟るかを苫米地さんが解説しているのが本書です。
しかも”超”悟り入門とタイトルにあります。
超とは?例えば超能力は人間の能力を超えたという意味ですし、超高速は高速を超えたからそのように言われます。
つまり悟りを超えた、具体的には悟った後のことまで本書ではカバーしています。
仏教の解説書はたくさん出版されていますし、悟りの解説も千差万別ですが、本書ほど悟りについて深く語っている本は珍しいと思います。
また本書には特殊機能音源である『一週間で悟るためのブースト機能音源』と『21世紀の瞑想のための機能音源』が収録されたDVDが付属します。
さらに巻末には苫米地さんがネパールの上座部仏教寺院で大乗仏教代表として行った講義『「空」を定義する~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ~』の文字起こしが記載されています。
悟りはもともと仏教にはなかった!?
まずは悟りの定義からです。余談ですが定義から入るやり方は苫米地さんらしいと思います。
辞書の定義やWikipediaの記述を引用しています。まとめると以下の通りです。
広辞苑 → 迷いが解けて真理を体得すること
デジタル大辞泉 → 物事の真の意味を知ること、迷妄を払って生死を超えた永遠の真理を会得すること
Wikipedia → 宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得をいう。サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」「通達」などの意味に相当する単語はあるが、日本の仏教用語として多様される動詞の「悟る」、もしくはその連用形である「悟り」に相当する単語は存在しない
広辞苑と大辞泉の記述は特に真新しいことはないでしょう。Wikipediaの記事は書き換えられる可能性がありますが、苫米地さんはWikipediaの説明文に注目します。
サンスクリット後には日本語でいうところの「悟り」に相当する単語はないと言っているのです。単語がないわけですから、これに相当する概念もありません。要は、「悟り」は日本人が勝手に考えている概念である可能性が高いのです。
実はこれが「悟り」を理解する上で最初にわかっておかねばいけないところなのです。16
仏教がインドから中国に伝わり、その後日本に入ってきます。
インドのサンスクリット語から中国の漢字に翻訳する段階で意味ではなく発音が似ている字を当てる場合があります。これを音写といいます。
例えば般若心経の一節である「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわか)」などは漢字に意味はなく、日本語に翻訳することができないと言われています。
悟りも同じで”悟”という言葉に意味はなく、サンスクリット語で近いのはサンミャク・サンボーディで正しい知識、完全なる理解という意味です。しかし釈迦の悟りではないと苫米地さんは否定します。
そもそも「正しい」とか「完全な」という言葉を使っている時点で釈迦の悟りとは別物です。釈迦の悟りは前述したようにアプリオリを否定しているので「絶対に正しい」というような完全性、永劫性、絶対性を示唆するような言い方をすることはありえないのです。
ですから、本来は「悟り」という言葉は使わないほうがいいのですが、読者が読む上で「悟り」「悟る」という単語があったほうが理解しやすいので、本書でも便宜的に「悟り」の文字を使っていきます。ただし、「悟り」は「開眼」というような意味だとご理解ください。 18-19
悟りには本来、私たちが知っているような意味はないと言うのです。
本来というのは釈迦の時代の仏教のことでしょう。苫米地さんは天台宗の僧籍を持っていますが、主張は天台宗というよりは上座部仏教に主張が近く、極端なことを言えば仏教原理主義と言えます。(実際、本書の中でも最近のマインドフルネスブームを批判しています)
悟りとは
それは「この世は幻である」と理解すればいいだけです。
(中略)
例えば、食卓を知らない民族が食卓を見ても食卓とは思わないでしょう。そこに座ってしまうかもしれませんし、なにか道具置き場として使うかもしれません。使う人によって座卓はイスになったり、棚になったりするわけです。
「だからそれがどうした?私たって食卓の上に書類を置くこともあるし、行儀は悪いが座ることだってある」と思うでしょう。
確かにそのとおりですが、私が言っているのは「存在とはなにか?」です。さっきの食卓が食卓に見える人にとっては、食卓は食卓ですから、そこに座れば、「行儀が悪い」と言って起こるでしょう。しかし、少し高いイスだと思っている人にとってはイスに座っているのになにを怒る必要があるのか、となります。ヘタをすれば、食卓派対イス派の喧嘩が起きるかもしれません。
この食卓かもしれないし、イスかもしれない物体Xは何も変わっていません。しかし、この物体Xを巡って、いさかいが起きる可能性があるのです。これが存在はあやふやであり、幻だという意味です。
この世が幻だという意味は、この世の存在はすべて情報次第でいくらでも変わってしまうということです。物体Xが幻だと言っているわけではありません。 30-32
苫米地さんの言う悟りの意味は”この世が幻である”というもの。
しかし具体的なものが幻というよりは、私やあなたの認識のほうが幻だということ。私たちが正確に世界を認識できない以上、世界が幻であるのと同じでしょう。
また”この世が幻である”という知識を得たあとは、悟りを実感する必要があると苫米地さんは言います。
本書にはいくつかの瞑想法が書かれており、止観瞑想、六本木ヒルズ瞑想、黙って食え瞑想など『思うままに夢がかなう 超瞑想法』で紹介していた瞑想法に加えて、映画マトリックスを観るというマトリックス瞑想が紹介されています。
マトリックスの一作目では、仮想世界であるマトリックスに入って混乱した主人公ネオが、師匠であるモーフィアスに『これは現実じゃない?』と問うシーンがあります。
Morpheus: What is “real”? How do you define “real”? If you’re talking about what you can feel, what you can smell, what you can taste and see, then “real” is simply electrical signals interpreted by your brain.
(モーフィアス:現実とはなんだ? 現実をどう定義するのだ? もし、触ったり、匂いがしたり、味がしたり、見えたり…というのであれば、現実とは脳が解釈している単なる電気信号になってしまう)
モーフィアスの答えは本書のテーマに合っていると思います。だからこそ苫米地さんはマトリックス瞑想を提案しているのでしょう。
脱瞑想入門!?
「この世は幻である」という悟りについて理解し、瞑想によって悟りを実感できたとして、その後はどうするのでしょうか。
第3章のタイトルを見てください。『脱瞑想入門』です。
そうです。瞑想するのは、もうやめましょうと私は言いたいのです。
そうお怒りになる人もいるとは思いますが、瞑想は悟りさえ理解できれば、早めに卒業するべきものなのです。
なぜなら、釈迦は悟ったあとには瞑想らしい瞑想はしていないからです。 68
悟りを実感するには瞑想は必須ですが、その後は瞑想をやめるべきだと苫米地さんは言います。
瞑想を散々紹介しておいて、次の章が脱瞑想入門!?私は怒りはしませんでしたが、大変驚きました。
しかし、釈迦が悟ったあとにあまり瞑想をしている様子がないのはそのとおりです。苫米地さんが言っていることは説得力があると思います。
ちなみに、脱瞑想のあとの章は脱悟りです。悟りを実感した後に何をするのか?が問題となってきます。
まとめ
本書にはDVDが付属しており、機能音源が収録されています。
WAVファイルなので、パソコンで聞く必要があります。内容は『一週間で悟るためのブースト機能音源』と『21世紀の瞑想のための機能音源』です。
苫米地さんの本で特殊機能がついているのは久々です。
本書の最後の方にはこれらの音源を使って瞑想し、一週間で悟りを開く方法が書かれています。
ここまでの詳しい過程については本書を読んでもらうとして、悟りを開いたあとは、他人のために生きるべきだ…これが苫米地さんが本書でだした結論です。
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