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死と向き合うには?『「生」と「死」の取り扱い説明書』

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「生」と「死」の取り扱い説明書

私もあなたも、いつか死にます。

これはお金があっても、頭が良くても、人望があっても関係ありません。平等に訪れます。そんな「死」とどう向き合えばよいのか?というのが本書のテーマです。

コーチングなど、どう生きるべきか?に役に立つ方法論はたくさんありますが、死と向き合うのは苫米地さんの本のなかでも珍しいと思います。

まずは死を恐れる理由からです。

一体「死の恐怖」とは何なのでしょうか。私たちは、恐怖を感じようにも死ねば意識そのものがなくなるとわかっているのに、なぜ、死に対して怯えるのでしょうか。

自分がこの世から消えてなくなるーー・

どうやら、この「自己喪失感」が「死の恐怖」の正体のようです。この「自己喪失感」を分析してみると、一つは「自分という存在そのものが消えてなくなること」、もう一つは「自分という存在の価値がこの世から消えてしまうこと」、この二つがあることがわかります。 17

自分の存在そのものと、自分の存在価値の喪失が、死の恐怖に繋がっていると苫米地さんはいいます。これらに向き合った上で、どのように生きるべきかが本書の内容です。

簡単に死への恐怖を克服する方法

人類の長い歴史の中で、死への克服する方法というのは研究されてきました。一番メジャーな方法は宗教を信仰することです。

昔の人だって、己の命が消滅することへの恐怖や、身近な人が死に、つい先ほどまで話していた相手、自分を認めてくれていた相手、愛を注いでくれていた相手がいなくなってしまったことに対して、簡単には心の整理がつかなかったのでしょう。

実際、宗教と名の付くものは、ほぼすべて、死についての明確な答えを持っています。つまり、心から本気で宗教を信じていれば、死に対して心の整理がつかないということはありません。

私の言葉で言えば、どの宗教でもいいから、本気で「洗脳」されてしまえば、死について思い悩むことはないということになります。 305~330

原理主義者による自爆テロは言うまでもありません。完全に洗脳されているからこそできる芸当でしょう。

また宗教に限らすとも、死の恐怖を克服するために、指導者の語るストーリーを完全に信じ込ませるというには、戦争においてよく用いられます。戦前の神風特攻隊もそうですし、アメリカ海兵隊でよく言われるフレーズ”Do you want to live forever(お前達は永遠に生きたくないか?)”など国や文化が違っても存在します。

これらの世界観を本気で信じることができれば、死への恐怖を克服できると思います。

しかし全部妄想だと苫米地さんは切り捨てます。

宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。

生死の境をさまよい、九死に一生て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。

(中略)

こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する個々との整理がつくのであれば有益です。

(中略)

小説を読んだり、映画を見たりして、そこに描かれているストーリーがすべて現実だと思う人jはいないはずです。

それなのに、宗教の場合はなぜかその教えを現実だと思い込んでしまいます。

(中略)

教祖、教団は「これはすべて妄想ですよ」と言ってあげなければいけません。妄想なのに本当のことだと思ってしまうから、他の宗教を攻撃したり、宗教がきっかけで戦争になったりするのです。 347~362

理想的ではあると思いますが、「これはすべて妄想ですよ」と宗教者がいうのは極めて難しいとでしょう。

他者の救済や、お金儲けなど宗教者が割り切っているのであればまだマシなほうで、自分の唱えている教義を自分自身が信じていることが多いでしょう。むしろそのほうが臨場感の高いストーリーを語ることができて、信者の獲得の可能性も高まると思います。

苫米地さん自身も、『宗教の秘密』の世界宗教を作る方法の中で、他人を教祖にするべきだと言っています。

仏教の特殊性

宗教の中でも仏教はなかり珍しい部類に入ります。それは死後の世界を否定している点です。死後の世界を否定するというのは、初期の仏教の特徴です。現在でいえば上座部仏教でしょうか。

日本で一般的な仏教、例えば浄土宗や浄土真宗などでは『浄土』という死後の世界を想定しているのでその限りではありません。

この上座部仏教では「空」というのが根幹にあります。

実験室で真空を作ったとします。ところが、完全に真空を作ったはずの空間に、いつの間にか素粒子がポンポンと現れてしまうのです。これは、観測という行為がエネルギーを与えているからだと解釈されますが、とにかく無を作ったはずのところに有が生まれてしまうわけです。

逆もあります。例えば、原子は原子核と電子からできていますが、電子というのは有、すなわち物質として存在するはずなのに、場所を確定しようとしても、ある確率でしか観測できないのです。520

空というのは無ではなくて、無も含むというのが苫米地さんの解釈です。苫米地さんの本になれている人であれば、無よりも空のほうが抽象度が高いといえばわかるでしょうか。

そしてすべてが空だとすると、生きているのも死んでいるのも同じだというのです。これは仏教だけでなく、不確定性原理など現代物理学でも説明できると苫米地さんはいいます。

生物学でも死の定義は難しい

別の方向・・・例えば生物学的には死はどう定義されるのでしょうか。

これもかなり難しく、現在も議論されている途中です。例えば心臓が止まったらということであれば簡単です。しかし、心臓マッサージで息を吹き替えす可能性もあります。

一応法律上は、脳神経外科医などの医師が二回の判定を行い、脳死の判定するそうです。

(参考)http://www.okayama-zouki.or.jp/noshi.html

これも便宜上でしかなく、当然議論に。

苫米地式死生観とは

宗教や科学でも死の明確な定義は難しいですが、苫米地さんが独自の死生観『苫米地式死生観』を語ります。これが本書の核心部分になります。

とはいえ、苫米地さんの完全なオリジナルとは言いがたく、前述の仏教の思想の影響を受けているのが特徴です。仏教の思想を現代の知識で再構成したといったほうが正確でしょうか。

「死」を恐れる理由の一つに、「自己喪失感」というものがあります。自分がきえてなくなってしまうことへの何とも言えない恐怖感、あるいは、自分が消えた後、宇宙がどうなるのかということへの恐怖もあるようです。恐れるとまではいかなくても、気になるという人は多いかもしれません。

(中略)

自我はどうなるのでしょうか。自我と宇宙は同じものでした。ならば、宇宙が変わらないのだとすると、自我も変わらないということになります。つまり死んでも自我は変わらない。個体の死は自我の消滅を意味しないということになります。

物理的な存在が情報的な存在に変わるだけであって、自我が消え去ったりはしないのです。670

 

自我とは何か?という問いに、『自我とは宇宙と自分とを切り分ける部分関数である』といいます。宇宙の一部が自我だということ。そして自我以外のものすべてを『宇宙』と表現しているのです。

自我も宇宙も同じものだから、自分が死んでも、自我は消えないと苫米地さんはいいます。言い方を変えると、物理的には死んでも、情報としての自分は消えないのです。しかし生きていても、人間は情報に過ぎないので、生きていてるときと、死んでいるときに差はないといいます。

私たちは一人ひとりが、宇宙を構成する要素です。あなたと宇宙は切り離せないわけです。そして、あなたが宇宙だと認識しているものは、あなたの脳の中にしかありません。私はこれを「情報宇宙」と読んでいます。818

普通に宇宙というのは物理宇宙で、苫米地さんは物理宇宙とは別に情報宇宙の話をしています。

そして最後はどう生きるかです。

自分の機能、つまり自分の価値についての話になります。

本質は、「生きるために生きる」わけですが、そこに機能を付加する自由も私たちにはあるのです。

「自分探し」とか、「生きる目的探し」が流行ったり、そうしたことを考えがちな時期、年齢というものがあります。機能、役割を見いだせないと悩むわけです。

なぜ、機能が見いだせないのか。

それは自我を見ていないか、宇宙を見ていないかのどちらかだと思います(結局は同じことですが)。

宇宙(もちろん、地球外空間という意味ではなく、森羅万象=目の前のもののことです)を見ていればいくらでも見つかるはずなのです。

おそらくは、暇すぎるのだと思います。子育てで忙しいお母さんは、「自分探し」など考えません。考える暇がありませんし、子育てというしっかりとした機能を果たしているからです。子育ての合い間の、ふとした瞬間に「子育ての機能しか果たしていない自分」に疑問を持つことはあるかもしれませんが、それは前向きな思考ですから問題ないでしょう。これに気づいた瞬間に、宇宙を見つめればいいだけです。1076

生きるために生きて、自分の機能=価値を生み出すことに集中するべきだ・・・というのが苫米地さんの回答です。

本書は言葉自体は平易ですが、その思想を理解するのは難しい内容ですし、苫米地さんの言っていることが唯一の答えでないのは間違いないでしょう。

しかし、私やあなたに平等に訪れる「死」と残りの人生をどう生きるか?という重要な問題に対するヒントになる可能性はあります。

以下は電子書籍版です。

 

 

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